こんにちは、みちょるびんです。
(前回までのあらすじ)
入社して最初の数年は、一つの夢も実現し、何の疑問もなく、仕事に励んでいたみちょるびん。そんなある日、占いで「将来、商売を始める」「自分を抑制している」と告げられ、仕事に対し、違和感を感じ始めた。学生時代に熱中していた「演劇」に活路を見出し、カルチャースクールの演劇講座を受講。そこで出会ったつるさんに誘われ、新たにダンス教室に通うことになったのだが・・・。
1.やみぃ・やみ・やみ
「やみぃ・やみ・やみ」とは、みちょるびん造語。「Yummy(ヤミー)・闇・病み」と書く。
‘Yummy’は英語で、おいしいという意味。‘ヒトの不幸は密の味’との観点から、みちょるびんの嘆きの日記を「やみぃ・やみ・やみ日記」と命名。
自身と対比することで、「幸せを実感・感謝する」、あるいは、共感することで、「苦しんでいるのは自分だけではないという励まし・勇気」になれば、幸いです!
2.ある日のやみぃ・やみ・やみ日記
ダンスレッスンの後、皆でいつものカフェに寄った。
ある若者が、お金がないからと遠慮して、料理に手を付けていなかったので、これはサーブしてあげないと食べないだろうと思い、皿に料理を装ってやった。
その様子を見ていた若い女子に、「お母さんみたい」を言われ、キレてしまった。
自分はその彼と同い年なのだと言い訳されたが、若者と彼女が同い年だからと言って、私が‘お母さん’である‘いわれ’はない。
私が、20代後半のデカい子供がいる年齢に見えるというのか?
それに腹が立った。
彼女に悪気がないのは、頭ではわかっているのだが、最近、とにかく、自分の老いや、太っちょぶりや、醜さにコンプレックスを感じているので、そういったことにとても敏感なのだ。
何かすごくいやーな気分のまま帰宅することになった。
腹立たしい。
それもこれも、結局、「自分に問題アリ」なのだから。
3.それから約10日後の日記
いろいろなことを考え出すと、いやになってくる。
私にどうしろというのだろう。
感情のない生き物にでもなれというのか。
コートを間違って持って帰られて風邪ひいたり、妹と喧嘩したり、次々に、いやなことが起こる。
私が招いているとでもいうのか。
あるいは、試されているのか。
これだけ続けば、さすがにもう、これ以上の悪いことは起こらないんじゃないかとも思うが。
あるいは、気の持ちようで変わるのか?
それで済むことだとしたら、どれだけ損していることか。
不幸な時間を選択しているのは、自分。
4.その翌日の日記
家に着いたのは21時で、遅い時間なので、少し迷ったが、やっぱり歩きたくて、急いで支度してウォーキングに出かけた。
やっぱり、続けないと。
テレビ番組「オーラの泉」の今日のゲストは、世界的に有名な指揮者だった。
有能な人には、昔の偉人も、付いて導きたくなるらしい。
バックの守護霊的な人々も、そういう誘導をするらしい。
私は、有能でないばかりか、努力もせずに、棚ボタを望んでばかりだから、ダメだよね。
やる気だけはあるのだけど。
でも、神様の前で、まっすぐ目をそらさずに話しができるのか?
弁解ばかりしてしまいそうだ。
だって、パーフェクトでいるのは難しい。
そうじゃない?
私は‘ヒト’を幸せにしたいと思っていない。
本来、一番幸せになってほしいと願うべき相手に対して、それを願えない。
そんなんで、神様が許すわけがない。
5.それから約2週間後の日記
あーあ、日記には、いい出来事しか書きたくないのに、起こるのは、毎日、いやなことばかり。
おお、1つだけあった。
体重がまた減った!!
6.その翌日の日記
今日は、夕方から雨になったので歩くことができなかった。
残念。
明日は晴れることを願う。
「今日は、日記に何を書こうか」と考えてみた時、どうしても、‘連中’に関する内容ばかりが浮かんできて、やっぱりこれが、自分の最大の関心事項であると言うことは否めない。
はて、私は、何のために生きているのかと思うと、ショックだったと言うか。
生活の中心が、‘それ’になっていたのではないか。
もちろん、ウォーキングであるとか、料理であるとか、そういったことを活力にしている部分はあるが、日記に書きたいトピックの有力候補が、‘それ’だというのは、なんとも寂しいではないか。
本当に、私自身の人生を楽しむために、歩むために、生きていかねばなるまい。
年齢が40代になると、「老いるのが怖い」と思うようになる人が多いのだとか。
それは、私自身も感じていることでもある。
きっとそれは、愛に満たされていないから、老いた自分に自信を持てないのだと思う。
愛されるためには、自分がまずは愛さないといけない。
たぶん。
以上、みちょるびんでした!