こんにちは、みちょるびんです。
(前回までのあらすじ)
入社して最初の数年は、一つの夢も実現し、何の疑問もなく、仕事に励んでいたみちょるびん。そんなある日、占いで「将来、商売を始める」「自分を抑制している」と告げられ、仕事に対し、違和感を感じ始めた。学生時代に熱中していた「演劇」に活路を見出し、カルチャースクールの演劇講座を受講。そこで出会ったつるさんに誘われ、新たにダンス教室に通うことになったのだが・・・。
1.絵の先生の個展を訪れて
先生の絵は、「木の大きな幹」が一番好きだった。さすがに、全然買えない値段。
猫の絵にも気に入ったのがあった。そちらは、その気になれば、手が届かない額ではなかったが、でも、今の私には高い。
宝石の勉強への投資が控えているのだ。
先生の絵には生命がある。
光が、Lifeがある。
息づいている感じ。
私の絵に足りないのは、それだと思った。
さびしそうな絵の理由。
生きていないのだ。
そして、先生の絵には、根底に、「愛」があるのだと思った。
「木は語りかけている」と先生はおっしゃった。
しかし、木に対し、優しく問いかけているのは、先生であり、その対話を通して、絵が生まれているのだ。
先生は、私の絵について、まだ「芽生えていないのだ」と言って下さった。
だが、芽生えるとか芽生えないとかではなく、私自身の姿勢に問題があるのではないかという気がした。
一般的に上手とは言い難い、「デッサン会」メンバーのM氏の絵。
だけど、生命が感じられる。
だから、彼の絵はヒトを惹きつけるのに、違いない。
2.「絵の顔」に関すること
今日は、夏恒例のヌード・デッサン。
どこかで会ったと思ったら、前回のアフリカンのモデルさんだった。どうりで。
彼女は、前回のデッサン会の時、アフリカで買ったという生地で手作した服を着ていた。頭にも現地の人のように布を巻いており、個性的で、雰囲気があった。こういう人には、描きたい意欲をかきたてられるから、いい。
ところで。
唐突であるが、私は、自分の描く「絵の‘顔’」が嫌いだ。
何かこう、‘目’が特徴的で、かわいくないのだ。
で、今朝、顔を洗って鏡を見て、はっと思ったのは、自分の顔が「絵の顔」に似ているということ。
前回、モデルさんは頭にターバンを巻いていたので、顔が全面に出ていたわけだが、鏡の中の自分も、洗顔のために髪をひっつめていたので、似ていることに気づいたのだ。
今日のデッサン会では、私の絵を見た仲間の一人に、「絵の顔」が私に似ていると指摘された。第三者たる彼女も感じたということは、やっぱり、似ているのに違いないと確信した。
あいかわらず、自分が描く「絵の顔」が嫌いである。
「絵」って、作者に似ると思っていたが、自分もそうだったのかと、ちょっと、感心した。
以上、みちょるびんでした!