こんにちは、みちょるびんです。
5.まとめ
「ぷぷっ・ピィ・DO」( 「本質にかえる。」)
以上のことから、「本質にかえる」ことだけでは、「わがままになる」「自分本位になる」ということには直結しないのだと思います。他者と共存していく上で、その辺が、みちょるびん的に気になっていた点でしたが、それは、自分のあり方次第。だから、安心です!
なーんて、昨日は、記事の最後を締めましたが、何が、「安心」なのだ!?
昨日は昨日で、なかなかうまく記事をまとめられなくて、最後は、あんな終わり方をしてしまいました。
なんだか、締まりが悪い・・・。
今一度、「自分の本質にかえる」ということがどういうことなのか、考えてみることにしました。
そもそも、「本質にかえる」というからには、そこにある状態は、「本質にない」ということが前提です。
「自分の本質にかえる」という目的の先にあるのは、「‘自分らしさ’の追求」ということになるかと思います。
「自分の本質にかえる」という表現がそもそも、ことを荒立ててるというか、ややこしくしているのでしょうかね・・・??
一度「自分の本質」にかえってしまうと、もう、「本質」にかえったままなんでしょうか?
それとも、出たり入ったり、自由自在にできるものなんでしょうか?
なんとなく、本質にかえったままでずっと過ごしていては、いろんなところで摩擦が生じてしまいそうな心配があります。
なぜなら、「自分の本質」にかえった時点で、キャラが濃くなってしまっているのではいかと思うからです。
人間の性格は、一言で言い表せるような単純なものではなく、いくつかの性質が絡み合っているのだと思いますが、「自分の本質にかえる」と、それらの資質が浮き彫りになってくるとでもいうのか。
そもそも「自分の本質にかえる」ために「自分の純度を上げていこう!(『自分純粋培養計画』)」と推奨しているわけなので、結局、そういうことになりますよね。
濃縮ジュースの味が濃いのと同じです。
そして、味にパンチが効いている分、他のものとの「組み合わせ=相性の良し悪し」もより明確になっていく。
その‘組み合わせ’を好むか好まないかは、また、ヒトそれぞれということにはなってきますが。
そういう、自分が濃厚抽出されている状況だと、自分の中においても、明確な「好き」「嫌い」が生まれてくるのでしょうね。
そして、その判定が容易になるのであれば、確かに、「自分が幸せとなる方向」も見えてきそうです!
とはいえ、あまりにも自分の意見が白黒はっきりしてしまうと、特に、「自分の本質」とは反りの合わない性質を持つ他者との間で、‘摩擦’は避けられそうにありません。
いわゆる、「わがまま」「自分本位」の烙印(?)を押されてもおかしくない状況に置かれてしまいそうではありませんか?
そのせいで、窮屈な思いをする・・・。
それは面倒です。
それとも、あるいは、「自分の本質」が極められれば、逆に割り切れるようになれるんでしょうかね?
境地に達することができる―――!?
まぁね、「これが『私』ですが、何か?」っていう風に達観できれば、ヒトとの摩擦も恐れなくなるのかもしれません。
第一、その時点で、既に「自分とヒトとは違うのだ」ということを理解しているし、同時に、他者の持つ個性をありのままに、認識できるようにもなっているのでしょう。
あとは、その関係性に対して、自分が「心地よい」か「心地悪い」かを単純に感じ取るだけ。
別に「心地悪い」からと言って、その‘対象’を排除する必要はないのです。
「自分とは合わない」、ただそれだけ。
そんな境地に達せられると、むしろ、楽になれるのかもしれませんね。
みちょるびんは、「自分の本質にかえって」しまうと、「自分自身」が浮き彫りになって、他者と共存する世界においては、つらい思いをすることになるのではないかと心配に思っていました。
しかし、かえって、他者のために、自分の感情を振り回されることが少なくなるのかも知れないと思いました。
おおおおお!
以上、みちょるびんでした!