こんにちは、みちょるびんです。
1.先輩
仲良くしてもらっていた職場の1年先輩。
その先輩の、運命の決断の時に、立ち会ったことがありました。
みちょるびんが入社して、1、2年の頃でした。
列車で一緒になった親子と仲良くなった先輩は、その親子が信仰する、ある宗教に関心を持つようになりました。
そしてある日、みちょるびんは、先輩に誘われて、その宗教団体を訪問しました。
みちょるびんは、入信には関心はありませんでしたが、心理学的な観点から、どういった様子なのか、興味があったので、一緒について行ったのでした。
そこでは、大きな広間に通され、二人きりで、その宗教の紹介ビデオを見せられた記憶があります。
そしてその後、人が出て来て、勧誘をされました。
先輩は、その場で、静かに入信を決めました。
先輩から、関心があるという話しを聞いていたし、だからこそ、団体を訪問したという経緯はあったわけですが、まさか先輩が、その場で、本当に入信するとは思ってもおらず、とても驚きました。
しかし、まだ20代前半だったみちょるびんには、関係者が目の前にいる中で、先輩を思い止めるよう説得することはできませんでしたし、それに何より、先輩が決めたことなのだからと納得したところもありました。
その後、間もなく、先輩は、会社を辞めました。
宗教の活動に専念したいというのが、その理由でした。
みちょるびんは、大好きな先輩が会社を辞めるというような大事になり、自分はあの時どうすればよかったのだろうと、とても複雑な気持ちになったことを覚えています。
2.突然の連絡(日記)
ところで、驚いたことに、Hちゃん(先輩)と連絡がとれた。
それは突然だった。
彼女を知る同僚からの連絡にも、その同僚自体も久し振りだったので、半ばびっくりしたのだけど、Hちゃんの連絡先を知らせるものだった。
関西で宗教活動を続けているのだそうだ。
安心した。
‘続けられるだけの価値あるものだった’ということであり、我が社を辞めたことに対しても、後悔はないだろうから、だから、「あの時の選択は、とりあえず、間違っていなかったのであろう」という意味の安心。
海外布教を始めたので、翻訳や通訳を手伝ってほしいと、その同僚は言われたそう。
Hちゃんは、そういう目的で近づいてきたのだろうか?
(私が別途体験した)別の知り合いの、熱心な信者がそうであったように?
でも、私の知っているあのHちゃんなら、そんなはずはないと思うのだ。
私が、入社当時、とてもお世話になったHちゃん。
お互いの田舎が近く、心が通っていたと思うのだけど、だからこそ、ずっと心配していたのだけど、どうだろう?
3.それから半年位が経った頃の日記
Hちゃんから電話があった。
3、4カ月前の不審なメールは、Hちゃんからのものだったらしい。
そのメールというのは、「海外にいる姪が、クレジットカードをなくし、しかし、緊急で航空券を購入せねばならないため、知り合いがいたら、その人のクレジットカードを使わせてくれ」というもの。
誰なのか、名前も名乗らないのだ。
内容的に怪しいし、アドレスにも見覚えがなかったので無視したのだった。
そしたら、Hちゃんだったらしい。
連絡を取らなくなってから、何年にもなるし、仮にHちゃんだとわかっても、やはり、警戒していただろう。
あのメールの差出人が、Hちゃんだとわからなくてよかった。
仲が良かっただけに、返事に困るところだった。
4.それから更に1年位が経った頃の日記
2、3日前から、Hちゃんが上京してきているとかで、何度もメールや電話をよこしてくれている。
昨日などは、1時間おきに、3回も着信履歴が残っていた。
少し、気持ちが悪い感じがした。
何故に、執拗なまでに連絡してくるのか。
少し異常な気がした。
宗教がバックにあるせいで、必要以上に警戒してしまうせいもあろうが。
5.それから1カ月後くらいの日記
(Hちゃんとは、その後、一緒にランチをすることになりました)
Hちゃんは、遠くからでもすぐに判別できた。
Hちゃんもすぐに気がついた。
10年以上も会っていなかったのに、すごいものである。
私は、専ら、宗教の話しを重点的に聞いた。
Hちゃんは、最近まで立教者の側近をしていたらしい。
6年も。
それって、どうやらすごいことのようで。
口が堅いからではないかと本人は、言っていたが、信頼されているということである。
だからなのか、自信にみなぎっていた。
手をかざす‘ジョウレイ(?)’という行為も、先日、4カ月滞在していた中南米では、Hちゃんの名前で呼ばれていたらしく、自分は人気者だったとさらっと言ってのけた。
印象的だったのは、ランチを我々に御馳走しようとしたことである。
つまり、自由に使えるお金がある、偉いのだという証を知らしめようとしたのではあるまいか。
丁重にお断りしたが、印象的であった。
Hちゃんは、その宗教を私たちに、強制したりする風でもなく「信じてもらえて、それで、その人を救えたら嬉しいのだ」と話していた。
どんな宗教であれ、その人が救われれば、確かにハッピーであるし、周囲がとやかく言う話しでもない。
Hちゃんは、どれだけの人を救ったと信じているのだろう。
彼女自身にとっても、幸せなことである。
私には、会社のお金を使って、勝手に飲食するなどの権限もないし、平の平の平である。
Hちゃんも、あのまま会社に残っていたとしても、さほど今の私と状況は変わらなかっただろう。
だけど、今は、宗教の場で、自分の価値を見出している。
ああいう自信は、人を威圧するだろうし、好きではないが、しかし、一目置きたくなるような雰囲気があった。
何なのだろう。
やはり、自信なのか。
私は、自分に自信があるか?
何か、適当にその場その場を切り抜けてきた感じで、そうしたかったから、そうしてきたということはあるが、キャリアが蓄積されていないような気がしてならないのだ。
それだとやっぱり、自分に自信は持てないよね。
私の居場所はどこなのだろう。
以上、みちょるびんでした!