こんにちは、みちょるびんです。
【ある日の日記】
先日、古い雑誌で、有名な文学賞を受賞したという受賞作品を読んだ。
受賞者は、まだだいぶ若い作家であり、年齢差のある自分には、わかりづらい描写もあったが、でもやっぱり、文章は上手いと思った。
主人公がまるで実在しているかのように、イキイキとした存在感があり、それは、第一に、作者の実力の表れなのだと思った。
私自身は、空想の物語を紡ぐような才能はないし、物語の出来栄え自体を、あれこれ言う資格はないと思っているが、文章を書くという作業は、自分も毎日行っているものなので、関心がある。
もちろん、作者と自分との実力の差は明白であり、批評するにも、一定の力がないとできないことだし、そんな大それたことをするつもりは毛頭ない。
でも、お偉い先生方に認められ、世間的にもステータスが与えられたという作家の状況は、図々しいが、軽く嫉妬みたいなものを感じるのだった。
作者のインタビュー記事を読んでみると、作家は、学生の頃から書くことが好きで、「書かずにはいられない」という時期もあったのだそうだ。
若い身空で、既に「書かずにはいられない」って、どういうことなんだろう。
早くから「書くこと」に向き合い、「書くこと」が自分の拠りどころになっていたということだろうから、驚く。
これまでの人生の中で、そういう感覚が得られなかった者からすると、自分には、はかり知り得ない何かがあるんだろうなと感じる。
一方、多感な時期にありがちな、内から湧いてくる底知れぬ情熱や、独りよがりな思い込み等も想像され、何か、確信めいたものがあったのだろうかとか、演劇に熱中していた頃の自分に重ね合わせて思いを巡らせてみたりもした。
作家は、実力もあり、世間に認められたわけなので、何者にもなれなかった自分の若い頃を引き合いに出すのは、おこがましいことだ。
とは言え、少なくとも、あの頃の、根拠のない自信にみなぎっていた「自分」を思い浮かべると、この段階で、既に、作者との間には大きな差が出来てしまっているような、そんな敗北感があるのだ。
そもそも、本来、創作に勝ち負けなんてない。
現に、選考委員の批評を見てみると、例えば、小説のラストについて評価が分かれていたし、読み手によって、感じることは様々なわけで、どれが正解というものはないのだ。
それに、作者自身も、(ラストかどうかはわからないが)まだ完全とは言えないという思いがあるくらいなので、第三者が立ち入るものではないとも思う(コンテストの場である以上、審査する必要はあるし、既に世に発表した作品ではあるのだが)。
つまるところ、私と作者は違う人間なのだから、違うものを作って当然であり、卑下することはないとも思う。
他方で、埋もれて無名であった人が、急に抜きんでて、華々しく勝ち抜けていく姿を見せつけられると、’何も変えられずにもがいている’自分には、うらやましく感じられてしまうのだった。
結局、文章の「質」の違いは、簡単にどうでもできる問題ではないが、生産「量」の観点からは、やっぱり負けているのではないかと思う。
「東洋の魔女」と呼ばれ、世界一に輝いたバレーボールチームにしても、相当な練習量だったと聞く。
一流と呼ばれる人たちは、並みならぬ努力をしているのだ。
ライバルだって、一様に努力しているわけだから、つまり、「その努力が、必ず報われるとは限らない」ということは、肝に銘じておく必要がある。
だが、「質」に見劣りがあるようなら、せめて「量」で対抗せねば、どこにも突破口はないということになる。
逆に言うと、「量」を制した上で、成功のチャンスが巡ってくるんじゃないか。
なんかね、やっぱり、私は、甘いんだよね。
ストイックが足りてない。
以上、みちょるびんでした!