こんにちは、みちょるびんです。
先日、日本にいる友達から、会社を退職したという連絡を受けました。
その友達は、みちょるびんが日本に一時帰国した際に会う友人の一人で、近況報告の際にはだいたい「仕事を辞めたい」という話の流れになるのが常でした。
みちょるびん自身も随分前から「仕事辞めたい病」(※)を発症しているし、一緒になって、とめどもない話をしていました。
仕事に対して希望に満ちている相手だと、そんな話はできないが、同じ悩みを抱えている者であれば、共感もできるし、気安くもなれる。
辛い思いをしているのは自分だけではないという、妙な安心感もある。
集まればだいたい、仕事の愚痴を話すというのが、お決まりのパターンとなっていました。
その友達が、本当に会社を辞めたというのです。
50代半ばの独身女性が、安定した職を離れるという、大きな決断でした。
驚きました。
まさか、本当に辞めるなんて思ってもいなかったというのが、みちょるびんの正直な気持ちです。
みちょるびんは現在海外に暮らしているということもあり、その友達とは頻繁に連絡を取り合うということはしていません。
でも、友達のことは若い頃から知っているし、なんだかんだ言いながら、このままずっと、この状況をキープしていくのかなと勝手に思い込んでいたところがあった。
だから「辞めた」という結果報告だけを受けて、余計に驚きました。
その友達とみちょるびんは置かれている状況が似ていて、その友達に対しては「同志」というような気持ちも抱いていたし、置いてけぼりを食ったような、寂しい気持ちになりました。
そして「先を越された!」という複雑な気分にも―――。
みちょるびんも、口では「仕事辞めたい病」だとかいろいろ言っていますが、結局はそんな勇気もなく、ずっと会社にしがみついている。
それだけに、実際に実行した友達を前にすると、口だけでしかない自分の姿がとても滑稽に映る。
実は友達と、同じ土俵にすら立っていなかったのかも知れないとでもいうか・・・。
もし、友達から事前に相談を受けていたら、みちょるびんは、引き止めていたかも知れない―――?
「これからどうするんだ」「先の見通しが立っているのか」「ちゃんと食べていけるのか」とか、いろんなことが心配になる。
だって現に、自分自身に対してそう思うのだから。
例のウィルスに加え、戦争だとか、自然災害だとか、インフレやら物価上昇やら、自身の健康問題も加わり・・・、先の見えない不安なことばかり。
ますます、尻込みしているみちょるびんがいます。
だからきっと、不安を煽るようなことを言って、友達を思いとどまらせようとしていたに違いない。
きっと、そういう人は、友達の周囲にもたくさんいたことだろう。
だけど友達は、自分の意志を貫いた。
友達だって、自分自身のことなんだから、そんなの考えないはずがない。
このまま仕事を続けることで生じる弊害と、「自由」と引き換えに失うものとを比較、吟味し、友達にとっては弊害の方が大きいと冷静に判断したに違いない。
友達から聞いた印象に残った言葉は「定年分まで働いた」というもの。
その言葉を聞いて、みちょるびんもようやく納得、「それならもう十分、お疲れさまでした」っていう気持ちに素直になれた。
そんな過酷な思いで働いていた友達を引き止めてはいけないし、引き止められるはずがない。
友人の門出なのだから、祝わないと!
「友達」なんだから、本当に、友達のことは心配している。
これからもずっといい関係性でいたいし、友達には幸せでいてほしい。
だけど、引き止めようとする気持ちの中には、「心配」だけじゃなくて、自分の同志のままでいてほしいというみちょるびんの我がままな気持ちもあっのではないか・・・。
変化していこうという、思いきりのいい友達に、多少の嫉妬も抱いたかも知れない・・・。
事前に、友達から相談を受けなくて良かったのかも知れないな、そんな風に思いました。
いや、‘相談を受ける’だなんて、おこがましいか。
友達は、みちょるびんのことを「同志」とすら見なしていなかった可能性もあるわけで・・・。
フワフワしてるしね、みちょるびんは。
それにしても、このタイミングで、友人の一人が本当に仕事を辞めてしまうとは思ってもみなかったことだし、この一撃は結構ツライ。
「ぽっかり穴が空いたよう」という表現があるが、なんだか、それの感覚がしっくり当てはまるような感じがある。
やっぱり、「同志」だと思っていた人を失ったという悲しみなのかな。
みちょるびんが一方的に抱いていたものだったかもだけどね☆
以上、みちょるびんでした!
(※)「仕事イヤイヤ期」